Beyond the Material World [物質世界を越えて]

ブルース・モーエンワークショップ、ホ・オポノポノ、ヘミシンクなどの実践記。
ブルース・モーエンワークショップ、ホ・オポノポノ、ヘミシンクなどの実践記。

次の記事 次の記事:知人の見た夢に未だ現れていない現実を見る
前の記事 前の記事:リラックスのエクササイズ中に見たビジョン
ホーム TOPページへ戻る

[2008年05月05日(月) 09:52] 

幸せに生きることのできる素質

こんなことがあった。
2人の人物に親切にしたのだが、その2人からまったく別の反応が返ってきた。
それがあまりに見事なコントラストだったので、記録しておくことにする。

人が他人にできる最大限の親切を100とすると?

1人の人物、ここではAさんとする。
私はAさんに対して自分ができる最大限のことをした。
具体的に何をしたかについては述べないが、大まかに「親切なこと」としておく。

最大限とは文字通りの意味で、それ以上はない。
ここでは話をわかりやすくするため、それを数値化してみる。

私はAさんに対して100(最大値)の親切を行った。
普段、日常生活をしていて他人に100の親切を行うということは滅多にない。
きっと大聖者でもない限り、常にフルパワーの100を発揮し続けることができる人はいないだろう。

この「100」という数値は「その人の最大値」という意味だが、このように考えてもらうとよりイメージしやすいかもしれない。


その人は1日に100の親切なことができる。


私はAさんと別れた後、体力的にも精神的にもヘトヘトになっており、2日ほどボーッとしている以外何もできなかった。
正直に告白すると、その間、人に親切に接することができなくなっていた。
5や10レベルの親切でさえも、ある程度の体力と精神的ゆとりが必要なのだ。


私にできる最大限の親切の対価


その後、Aさんから連絡があった。
私はAさんから感謝されることを期待して様々な親切を行っていたわけではなかったし、感謝の言葉を聞けなかったとしてもそれを不満に思うことはなかっただろう。
私としてはAさんに対して「やれるだけのことをやった」という自負があり、それで充分だったからだ。

予想に反して、Aさんは私を批難してきた。
きっとAさんの中で、私の親切の中に気に入らないものが含まれていたのだろう。
100の内、1つくらい。


「望外」と「それでも足りない」


Aさんからの反応のしこりを胸と脳に感じながらもそれなりに気力と体力を回復した私はBさんと会った。
そこで私はBさんに対して親切を行った。
Aさんに対して行った親切とは行為そのものは異なるが、「そのときの本人が必要としていることで、私がしてあげられること」には違いない。

私がAさんに対して行った親切を100とするなら、せいぜい30程度。
私としてはあと5か10かぐらい上乗せできたし、実際そうするつもりだったが、時間的制約もありそれは叶わなかった。

Bさんとの別れ際、Bさんは私の行為に対して何度も感謝し、喜びを表現し、またそれを形にしてくれた。
それは私が受け取るには「望外」とも言えるものだったが、Bさんにとっては「それでも足りない」と感じていたようだった。


幸せな人生を送ることができる素質


帰宅する電車の中で、私に立て続けに現れたこの2つの現実について考えた。

一方は99の親切に対する感謝はなく1の気に入らない行為に対する不満を怒りをにじませながら私にぶつけてきた。
もう一方は30の親切に対してあたかも私が60くらいの親切を行ったと錯覚させるほどの感謝を私に送り返してきた。

どちらも私の予想外のことだった。
ふと、最近読み返した小林正観さんの本の一節が思い浮かぶ。


釈迦の教えは「感謝」だった表紙


釈迦の教えは「感謝」だった』に右肩と右腰、右膝の痛みが数年とれないと訴える30代の気功治療師の話が出てくる。
小林正観さんは彼に以下のようにアドバイスした。

彼は、気功の専門家ですから、体の部品をいくつくらい挙げられるかと尋ねました。 「三〇〇ぐらいでしょうか」 と彼は答えました。 「では、きっかり三〇〇だとしましょうか。人間の体の部品がきっかり三〇〇あるとして、痛いところが右肩と右腰と右膝だとします。では、痛くないところ、順調に働いてくれているところが、二九七ヵ所あるわけですよね。では、その二九七ヵ所に対して、順調に働いてくれてありがとうと手を合わせて、お礼を言うことにしてみたらどうですか?」 彼は非常に頭のいい人だったようで、 「分かりました。家に帰ってやってみます」 と、すぐに受け容れました。 家に帰り、すぐにやってみたそうです。約三〇〇ヵ所、挙げられるだけ名前を挙げて、痛くないところに手を合わせ、 「どこそこが痛くなくて、ありがとう」 「順調に働いてくれて、ありがとう」 と繰り返したそうです。 約三時間かかったそうですが、言い終わった後に、その三ヵ所の、数年とれなかった痛みがウソのようになくなっていたということでした。
(中略)

人間は痛いところがあると、痛いことばかりを言って、その痛い問題があるところばかりを挙げ連ねて、実は順調に働いて下さっているところをすっかり忘れています。
そのことを、実は身体も宇宙も訴えかけたかったのかもしれない。たまには順調に働いているところを思い出してみたらどうですか。たまには順調に働いているところに感謝をしてもいいのではありませんか。実はそういうメッセージを投げかけるために、どこかが一ヵ所痛んだり、二ヵ所痛んだりしているのかもしれません。


この話は「痛み」を「不満」に、「順調に働いているところ」を「親切」に置き換えて読むこともできる。

人から受けた行為の中に1つでも不満があれば、怒りで99の親切をすっかり忘れてしまえるAさんと、人から受けた親切、たとえそれが些細なことであっても、それを上回る感謝で応えることのできるBさん。
どちらが幸せに生きることのできる素質を持っているかについては言うまでもない。


他人は自己を映す鏡


参考までに、あくまで私見だが、2人の大まかな人生観について補足しておく。

Aさんは人生を自己を向上させるための修行の場としてとらえており、どこか自分を救世主のように思い込んでいる節のある人間。
Bさんは働いてお金儲けしておいしいものを食べたり旅行したりして人生を楽しみたいと考えている人間。


さて、今ここを書きながら予想もしない形であるメッセージを受け取った。
AさんもBさんも知らないはずのXさんからメールが届き、「周りを見渡しなさい、渡りにいる人々は、今の自分の鏡です」と書いてあった。

「他人は自己を映す鏡である」とよく言われるが、特にこのAさんとBさんは、今の私を端的に表しているのだろう。
確かに私にはAさんの側面とBさんの側面を併せ持っている。

そう思える一方で、私はAさんほどストイックに自分を向上させることに固執してはいないし、Bさんほどではないにせよ人生にそれなりの楽しみを持つことを自分に許している。

 

次の記事 次の記事:知人の見た夢に未だ現れていない現実を見る
前の記事 前の記事:リラックスのエクササイズ中に見たビジョン
ホーム TOPページへ戻る

このページの先頭へ

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:http://seikou.info/cgi/mt/mt-tb.cgi/563

コメントする

(初めてのコメントの時は、コメントが表示されるためにこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまでコメントは表示されませんのでしばらくお待ちください)

このページの先頭へ